テレビという役割を考える

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(国境なき記者団のHPより)

若者のテレビ離れが叫ばれています。

と、いうのは、20年くらい前から散々言われてはいるのですが、
テレビは無くなっていません。

昨日の人気番組を見ていないと、
「え、見てないの?」という
流行に乗り遅れてるじゃね?みたいな、会話に入れてもらえないということも無くなりました。

けれども、テレビは無くなっていませんし、
これからも無くならないと思うのです。

なぜかというと、そこに関わっている人たちの生活がかかっているわけで、
そのシステムや、関わっている人数も多く、
一気に別業種にくら替えなんてことはできないからだと思います。

組織が大きくなりすぎて、
大きく変わることが難しくなっていると思うのです。

じゃあ、テレビがもっと面白くなって、
意味がある存在になれば良いわけですね。

まず、テレビとは、なんでしょうか。

テレビの存在意義は、まず、報道という情報提供。
次に、文化や芸術も含めた娯楽の提供であると思います。

そしてそれは、偏ったものであってはいけません。
ここでいう「偏った」というのは、どの機関の番組を見ても内容が似通っているということになります。
つまり、いろんな内容の情報が存在する状態が望ましいのではないかということです。

なるべく多くの機関が情報を発信するべきであって、
それらは皆内容が違っていても構わないものであると思います。

視聴者は、いろいろな情報を、
もちろんテレビだけではなく、その他のいろいろなメディアからも仕入れ、
その中から、現代をとらえるべきであると思います。

ここで、問題になるのが、
視聴者にとって良くないことを提供する番組や、機関があったら良くないじゃないかという意見が出てくること。

ですが、私は、中には、視聴者にとって良くないことを提供する番組や、機関があってもいいのではないかと思うのです。
嘘はいけません。
虚構や、偽造はいけないのですが、
伝えたい何かを見つけ、取材し、まとめて発信する過程で、
それは、やはり個性が許される日本において行われるので、
違いは出てきて当たり前なのではと思うのです。

でもって、受け取る側が、多種多様の情報の中から、
何かを導き出すのです。

そのシステムは、
民主主義を前提にしており、
民主主義は、国民が全て平等であることから始まります。

多くの意見が違うメディアがあったら混乱するじゃないか?
私はそうは思いません。

民主主義が正しく機能していればそうはならないと思うのです。

民主主義は、先ほども述べましたが、
国民平等が前提であり、そのためには、国民皆、最低限の学習は無償で得ていなければならず、
多数溢れるメディアをどのように手に入れるか、
その中から、どうやって現代をとらえるか、その方法というのは、
最低限の学習過程で得られるべきであると思います。

テレビは随分臆病になったと思います。

確かに、リモコンのスイッチを入れれば見えてしまうわけで、
半ば強制的なところもあるからです。

とはいえ、臆病になりすぎるのは如何なものかと思うのです。
争いを避けたいという日本人らしさもあるのかもしれませんが、
臆病になりすぎた結果が、
視聴率が取れない、
スポンサーが金を出さない、
視聴率に媚びた番組作り、
主張がない番組作り、
つまらない。

という流れなのではないでしょうか。

正しい報道というのは何か、
正しい情報提供とは何か。

真実など、何が真実かなど、
きっと瞬間瞬間で変わるものだと私は思うのです。

ですから、皆、情報提供のスタイルも内容も変わってもいいのだと思うのです。

とがれば尖るほど、良いと思うのです。
各機関の違いがわかるほど違えば良いのです。

虚構はいけませんが。

私はそう思います。

国境なき記者団のサイトによると、
日本の報道の自由さは、
皆さんが思っているよりもずっと不自由で問題があります。

http://www.newsdigest.fr/newsfr/features/1308-reporters-sans-frontieres.html

自らが作り上げた不自由かと思うのです。